公園を出てから、一分ほどたっただろうか。僕は、走るのをやめた。 あぁ、あんな南の帝王みたいな犬を、メスだと勘違いして愛してしまうなんて…… 僕の人生で二番目に最悪な出来事だった。 もちろん一番は、まさおと出会ったことだ。 でももうそのまさおはいない。 僕は、知らないところまで走ってきていた。 ほんの一分ほど走っただけなのに…… 僕の知っていた世界は、とても狭かったのだ。 そこには、まさおの家よりも高い建物がたくさんあった。 人もたくさんいた。車もたくさん走っていた。 ここがいわゆる『街』というべきところなのだろうか。 僕はこの街で、まさおよりもずっといい飼い主を見つけようと思った。 こんなにたくさん人がいるのだから、きっと優しい誰かが僕を飼ってくれるだろう。 とりあえず僕は、待ってみることにした。 ―――――。 「ワンッ」 時々吠えたりした。 ―――――。 たくさんの人が目の前を通り過ぎていった。 ―――ギュルギュルギュル…… そういえば今日はまだ何も食べていなかった。 お腹すいたなぁ…… 街の人は、案外冷たい。 せっかく新しい飼い主を見つけるチャンスだったのに…… 仕方なく、僕はまさおの家に戻ってご飯を食べることにした。 まあ、あの馬鹿のことだから、またいつかこんなチャンスは来るさ。 僕は犬の持つ帰省本能を使って、まさおの家に戻ろうとした。 …………… ん―…… 帰省本能って何だ? 犬には自然と備わっているんじゃないのか!? ………どうしよう、まさおの家にすら行けなくなってしまった。 どうしたらいいんだ?どうしたら…… とにかく歩いた方がいいのだろうか。それともここにいるのがいいのだろうか。 誰かが飼ってくれるように、アピールした方がいいのだろうか。 しかしそれでは体力を使ってしまうことになるし…… あー、どうしよう、どうしよう……って、これじゃあまるでまさおじゃないか! もしかして、まさおの優柔不断が移ってしまったのか? それから結構時間が経った。僕は結局ずっと同じ場所にいた。 もう空には星も出ている。 ぼんやりと空を眺めていると、嫌なことを考えてしまう。 もしかして僕は、このまま死んでいくんじゃ……… 「りぃ?」 突然誰かが僕の名前を呼んだ。 でも僕は、聞き間違いだと思った。 まさおの声ではなかったし、街の人が僕の名前を知っているはずがなかったからだ。 しかし、 「りぃ?りぃだろ?」 今度は前よりもはっきりと聞こえた。 僕は声のした方を向く。 そこには見知らぬ……いや、どこかで見た事があるような男が立っていた。 でも、思い出せない。 そういえば、この声もどこかで聞いた事があるような…… 「こんなところで何やってんだよりぃ。まさおはどうしたんだ?」 男はリードを持って、僕をどこかへ連れて行こうとした。 僕は抵抗した。 「おい、りぃ。俺の事を忘れちまったのか?名づけ親のこの俺を。入来だよ、い・り・き!」 あっ…… りぃなんていう馬鹿げた名前をつけた、あの入来だ! あれ以来会ってなかったからなあ。忘れてたよ。 僕は、ご飯にありつけるのではないかと思い、入来に付いて行くことにした。 「本当に、りぃだよなぁ?まさか売り物じゃないだろうなぁ?」 売り物?どういう意味だ? 「全く、あんな所にいたら紛らわしいじゃないか」 あんな所? 僕は振り返った。 そして見た。 僕がさっきまでいた場所を……そこは……… ペットショップだった。 『街』という、色々な匂いのする未知の世界に迷い込んだ僕は、嗅覚が鈍感になってしまっていたのだ。 ―――キュルキュルキュルグルグルルゥ…… 僕のお腹は悲鳴を上げていた。 入来は気が利かないやつだ。食べ物なんて、くれなかった。 それから十分ほど歩いた頃には、いつもの散歩道に戻っていた。 まさおの家には戻りたくなかったが、もうすぐご飯が食べれると思うとうれしくなった。 そして、まさおの家に着いた。 「ほら、着いたぞ」 入来は呼鈴を鳴らした。 「ピーンポーン……」 応答はない。 「ピンポンピンポンピーンポーン……」 やはり、応答はない。家には誰もいないようだ。 「ピポピポピポピポピィ――――ンポーン……」 入来はしつこかった。 とても大学生の行為には見えない。 無意味に呼鈴を押す、小学生のようだ。 「いないなぁ……」 諦めたのか、飽きたのか、入来は呼鈴を押すのを止めた。 「確か、親は旅行中だと言っていたし、まさおはりぃを捜しているのかもなぁ……」 そう言うと入来は僕を見つめ、僕は入来を見つめた…… あっ、いや、変な意味ではない。 入来は僕をメスだと勘違いしたが…… 出会った当初『かわいい』と言っていた気もするが…… 人間は犬を本気では愛さないという確信もないが……… えっ!?ま、まさか、入来は僕のこと…… って、確かに僕は犬離れしていると思うが、入来は人間で僕は犬だ。 『困難が多いほど余計に燃える』なんて事はない。 ………僕は何を熱く語っているんだろうか。テレビの見すぎかな? 「仕方がない、とりあえず俺ん家に来い」 おっと、そうだった。 僕は急に現実の世界に引き戻された。 入来の家は、まさおの家のすぐ近くにあった。 マンションで、一人暮らしをしているようだ。 まさおの家とは比べ物にならないくらい、入来の住んでいるマンションは大きくて、綺麗で……とにかく立派だった。 「りぃ、絶対に吠えるなよ!」 自動ドアのようで、自動に開かないドアの前で、何かボタンを押しながら入来が言った。 『はい、承知しております入来様ぁー』 あまりにも立派なマンションだった為に、僕はそんな気分になってしまった。 入来がボタンを押し終えると、ニセ自動ドアが開いた。 『入来って、すごく金持ちだったんだ……』 僕は入来の上着に隠されながら思った。 『いっそのこと、入来に飼ってもらいたいなぁ……』 エレベーター≠ニいう不思議な箱に乗りながら、そんなことも思った。 ―――チンッ エレベーターが止まり、ドアが開いた。 一番奥の部屋の前で、入来が立ち止まる。 そして鍵を取り出し、ドアを開けた。 「ニャーオ」 !……猫だ。 そうだ、入来は猫を飼っているんだった。 「ただいま、マリリン。お友達を連れて来たよ。仲良くしてやってね」 その猫はマリリンという名らしい。 うん、見るからに、マリリンという感じの猫だ。 きっと見たまんまを名前にしたのだろう。 一分もかからぬうちに、名付けられたに違いない。 マリリンは雪のように真っ白な短い毛に、ブルーの瞳をもつ、美しい猫だった。 あっ、これは特に深い意味はない。 マリリンは確かにメスだが、先ほどの人間と犬という組み合わせよりは可能性が高そうだが、マリリンは猫で、僕は犬――― 「マリリン、りぃ、飯食うか?」 また変な考えを巡らせていたのを、入来が遮った。 そうだ、僕はとてつもなくお腹が空いているんだ。 「ほら、お食べ」 入来が皿を差し出すと、すぐさま僕はかぶりついた。 気が狂ったように食べた。隣ではマリリンが上品に食べている。 「ごめんよりぃ。でも大丈夫みたいだな。それ、キャットフードなんだけど、ドックフードとそんなに変わらないみたいだな」 ――えっ!?キャットフード!?全然気づかなかった…… あまりの空腹さに、僕の味覚は鈍感になってしまっていたのだ。 食後、僕はうとうとしながら、マリリンと少し話をした。 『あなた、何ていうお名前?』 最初に話し始めたのは、マリリンだった。 言葉使いまで上品…… 『りぃ……だよ』 『りぃ!?あなたオスでしょ?』 『そうだよオスだよ……。君の飼い主のせいなんだから全く』 『どういうこと?』 僕は『りぃ』という名前について、一通りマリリンに話した。 『ふぅん……。私もこの名前嫌いだわ』 マリリンはそう言った。 なぜ嫌いなのか、理由は問わなかった。 気にはなったのだが、僕はとても眠かったのだ。 そして、僕は心地よい眠りに落ちていった………《BACK》《図書室》《NEXT》