私は公園から家まで、一度も止まらずに走った。 門を開け、ゆっくりと庭へ…… ―――あっ! りぃを公園に忘れて来てしまった! 今頃りぃはどうしているのだろう。 私のことを待っているのだろうか、それとも…… りぃは誰かに噛みついたりしていないだろうか。 そういえば飼い始めた頃は、りぃによく噛まれていたような気がする。 もし誰かに噛みついたりすれば、これは私の責任問題にもなるのでは? 何せ私は、自らリードを離して一人で家に帰って来てしまったのだから…… 私はびびった。そして今来た道を急いで引き返した。 公園に着いたが、りぃは見当たらない。 さっきまで居たベンチにも行ったが、やはりいなかった。 遅かったか…… 久々に走ったので私はとても疲れてしまい、ベンチに腰を下ろした。 ――んっ?何やら人の気配…… 「おじさん、まだ鼻毛出てるよ。ってか伸びてる?」 ……!さっきの女子高生だ。 「てっきり鼻毛処理に行ったのかと思ってたよ」 そうだ、私はこんな間抜けな格好をしていたんだ。 そして鼻毛も出ていたんだ…… さっき家でなぜ着替えなかったのだろう。なぜ鼻毛を処理しなかったのだろう…… 「はぁ…」 まぁもうそれについては忘れよう。 それより、りぃのことだ。 「あの、さぁ……犬、知らない?」 私は息が少し上がったまま女子高生に尋ねた。 「あぁ、あの犬?それならおじさんが走ってった後、何か向こうの方にいた犬に頭突きしてたよ」 女子高生は前方を指差した。 「えっ?もしかして、相手の犬、怪我した?」 どうか無事であってくれ…… 私は祈るような気持ちで聞いた。 「さぁ?でも飼い主にすごい怒られてたみたい。それでおじさんの犬、走って公園から出て行ったと思うよ」 うっ…… テレビでよく見る慰謝料請求の場面が頭を過ぎる。 もし過保護な飼い主だったら…… 「そ、そうか、ありがとう……」 ありがとう、か。 無意識に言った言葉だが、よく考えるとこんな不審な男と喋ってくれる人なんて、きっとこの子ぐらいだ。 私は心の中でもう一度礼を言った。 兎に角、私は逃げたりぃの捜索を開始することにした。 しかし捜す、と言ってもなんの手掛かりも無い。 私は取り敢えず、家がある方向に行くことした。 りぃは家に帰ろうとしたが迷ってしまった、という可能性が高そうだからだ。 家がある辺りを通過したが、りぃは見当たらず更に進んだ。 そこは子供の頃慣れ親しんだ場所だったが、今は随分と変わってしまっていた。 この辺りに来るのは、何年振りだろうか。 私は家からかなり離れた所まで来た。 昔来たことがある場所なのか、今初めて来た場所なのか、もう分からなくなっていた。 ―――クスクス…… 不意に小さな笑い声が聞こえた。 声のする方に目をやると、一人の少女が立っていた。まじまじと私を見ている。 何か、珍しいものでも見るような目つきで…… ――あっ……。 そうだ私は、周りから見れば明らかに『珍しいもの』ではないか。 いや、『異常者』なのかもしれない。 うーん、いやいや『異常』だから『珍しい』のか? まあ、それは置いといて、またまたどうして私は家に一度戻り、身なりを整えなかったのだろうか。 自分の脳みそを疑ってしまう。 暫くして、私は自分の脳みそについて悩んでいる脳みそに諦めさせ、りぃの捜索を続けた。 あぁ、このまま見つからなかったら、どうしよう…… ―――? どうしよう? 私はりぃが居なくなったら悲しいのか?いや…… 悲しくなんかない。それどころか、清々する。 本当は飼いたくなんかなかったのだから。 私は一般人として、居なくなった飼い犬を捜すことは、義務だと感じていたのだろうか。 それとも飼い犬=愛犬なのだと、いつの間にか思い込んでいたのだろうか。 どちらにせよ、今私がりぃを捜す必要はない。 私は回れ右をして引き返した。 数分後…… 道が、分からない…… 私の頭にベート―ヴェンの交響曲第5番、邦題『運命』(ハ短調)が流れる。 勿論第一楽章のあの有名なフレーズ…… 暫くの間、私は呆然と突っ立っていた。 取り敢えず人に聞こうと思ったが、辺りには人っ子一人居ない。 近くの民家……は、無い。 遠くの民家ならあった。 最悪あそこまで行くしかないと思い、人を捜しながら進んだ。 辺りがうっすらと暗くなってきた頃だった。 消えそうな街灯の下に、ぼんやりと見覚えのあるものが見えてきた。 それは…… 公衆電話だった! 電話ボックスに入り、受話器を取る。 『十円玉が無いっ!』 なんて言う間抜けなことは流石に無い。 私は財布を取り出して、小銭入れのチャックに手をかけた……が、何かがおかしい。 何か、こう、足りない気がする。 静かすぎるというか……。 私は耳をすませた。 「………」 しぃ〜ん…… 「うっ……」 本日二回目、ベート―ヴェンの交響曲(以下省略)が流れる。 受話器から、何の音もしないのだ。 思わず財布を落としそうになった。 『叩けば直るかもぉ〜』 なんて、甘〜い事を考えていた時、不意に何かを踏んだ気がして、下を見た。 私は一枚の紙切れを踏んでいた。 そこには無情にも『故障中』の文字…… 運が、悪すぎる。 仕方無く私は電話ボックスを出、また歩き始めた。 十分ぐらい歩いただろうか。またしても公衆電話を発見した。 受話器を取って、正常であることを確認。 そしてお金を入れ、ボタンを…… って、どこにかければいいんだ?親は旅行中だし…… ………… おぉ、入来が居るではないか。 で、入来の電話番号は確か87‐****…… おぉ、思い出せたぞ。流石そこそこ有名な大学の生徒である私の脳みそだ! 私は今にも踊り出しそうな勢いでボタンを押した。 市外局番だってちゃんと押したさっ。 『トゥルルルルルルルルッはい、入来です。』 「ぅわぁっ、い、入来?」 『えっ?誰っ?まさお?何キョドってんの?』 「えっ、いやぁ、だってさあ、お前電話に出るの早すぎなんだよ。まだワンコールだったぞ。こっちにだって心の準備ってもんが……」 『何言ってんだ?ま、それはいいや。りぃの事だろ?今、うちにいるんだ。迎えに来いよ』 「えっ?りぃ、お前ん家にいるの?……はぁ…」 『何溜息ついてんだよ。そんなに捜したのか?んじゃ、今からうちに来いよっ――プツッ』 「お、おいっ、ちょ待てっ!入来っ!」 『プーップーップーッ……』 ―――――。 「いぃ――りきゅぃぃ―――――っ!!」 私は大声で叫んだ。 心の中で…… 「あぁ、また掛けよう……」 今度は声に出して呟いて、重々しくボタンを押した。 『トゥルルルッはい、入来です』 「ぬおっ!い、入来?」 『まさお?何だよ今の声は。早く来いよ。』 入来は先程よりも更に早く電話に出た。 「いやぁーそのぉー……」 この間抜けな事態を伝えることに、私は少し躊躇した。 『何?早く言えよ』 「う、うん。実はさぁ、かくかくしかじか―――」 私は一部始終を入来に話した。 『はあ?マジかよ?お前幾つだよ!?』 「大学生です……」 『……。はぁー、分かった分かった。で、今どこにいるんだよ』 「嗚呼〜。お手数かけます入来さまぁ〜」 『気持ち悪いから』 「はい、スイマセン。えぇーっと、ここは……?どこでしょう?」 『ったく、電柱とかないのかよその辺に』 「あっ、あったあった。ちょっと待ってて」 私は受話器を置き、電話ボックスを出て電柱に向かった。 そして電柱に書いてある住所を記憶し、入来に伝えた。 『ん、じゃあそこで待ってろ――ガチャッ』 これで救われた、と思った。 いや、実際救われた。 電話を切ってから十分程経った頃、入来はちゃんとやって来た。 車に乗り込むと、何とそこにはあのベート―ヴェンの交響曲(以下省略)が流れていた。 本日三回目のその曲は、今日初めて私の鼓膜を震わせて頭に入ってきた。 勿論今回は有名なフレーズだけではないが。 入来はその家柄の所為か、クラシックが好きだ。 いや、家柄の所為、と言うのはやめよう。 何故なら私もクラシックが好きだからだ。 そもそも私と入来は『クラシック同好会』なるマイナーなサークルで出会ったのだ。 車に乗って五分ぐらい経っただろうか、曲が終盤に差し掛かった頃、入来の家に到着した。 入来の家には、幸せそうに眠るりぃの姿があった。 今更だが、こうしてりぃが見つかってしまっては仕方が無いと思い、眠ったままのりぃを家に連れて帰った。《BACK》《図書室》《NEXT》