今日は久しぶりに、祖母の家に行った。 私と母が着いた時、家には祖母と伯母だけで、従兄妹達は出かけていた。 無論、仕事に行っている筈の伯父も居なかった。 取り敢えず荷物を片付け、私はトイレへ向かった。 向かった先のトイレは、使用中だった。 この家には、トイレが二つある。 正確には三つと言うべきところかもしれないが、まあそれは置いておこう。 その二つのトイレは、一階に一つ、二階に一つというのではなく、一階に二つある。 一つは先程使用中だった、頻繁に使われているトイレ。 もう一つは今私が向かっている、少し古くてあまり使われていないトイレ。 トイレのドアを開けて、少し、私は迷った。 床は冷たいタイル、学校のトイレみたいな鍵に、薄緑のカバーがしてあるU型の便座。 そして、網戸付きの小窓がある。 何処と無く、前住んでいたマンションのトイレに似ているそのトイレは、一抹の不安を私の脳裏に過ぎらせた。 何処からか現れ、タイルの上をちょこまかと動き回る、虫。 網戸の小さな隙間から入ったのか、小窓周辺に居る、虫。 一体どのような経緯なのか、トイレットペーパーに引っ付いている、虫…… その頭の中での光景が、実際に網膜に映し出されているトイレの光景と重なる。 が、それを振り切ってトイレに入る。 慣れない便座に座り、違和感を覚える。 奥まった所にある所為か、扉の向こうからは物音一つしない。 思い掛けず、窓の向こうから声がした。聞き覚えのある声だ。 そう、これは叔母と従兄妹の声だ。 この家には住んでいないのだが、私が来た事を聞いて訪れたのだろう。 ガラガラと、引き戸の開く音がした。 扉の向こうから微かに、女の子の声がする。 私は前方の壁を眺め、その壁のずっと向こうに居るであろう従兄妹の顔を思い浮かべた。 十歳位の男の子が、きょろきょろと辺りを見回している。 乱暴に靴を脱ぎ捨てた女の子が、母親に叱られている。 その母親の傍らには、歩くのもままならないといった感じの、小さな男の子。 その小さな男の子に、あまり見覚えは無い。 ああそうか、前会った時は赤ちゃんだったもんなあ。 白い靄のかかった中に、私が知っているよりも少し成長した三つの姿が見えた。 ……見えた……? そりゃこの目の前にある…筈の壁を一直線にドカドカと壊していけば、玄関に辿り着く。 このトイレはそういう場所に位置している。 でも見える筈が無い、おかしい、あり得ない…… とにかく懐かしい顔に早く会いたいので、私は水を流し、トイレを出ようとした。 鍵を開け、ノブに手をかける。 そしてもう一度、先程玄関が透けて見えたような気がした壁の方を見やった。 もう、玄関は透けて見えていない。 しかしその代わりに、さっきまでは其処に無かった筈の換気扇があった。 妙な既視感がある。 その換気扇は、普通ならあり得ない場所に位置していた。便座に座ったら丁度目の前、という場所。 訝しく思い、じっと見据える。 カラカラ≠ニ言うよりはパラパラ≠ニ、その換気扇は力無く回っている。 不意に、通常より数倍遅く回っている換気扇の羽の間から、見覚えの無い部屋、のようなものが見えた気がした。 確かにこの壁の向こうには部屋があるが、それは和室である。先程見えたのは、洋室だったように思う。 暫く換気扇を凝視していた私は、腕を捲り、何気無く、けれど勢い良く、換気扇の中に右手を突っ込んだ。 手をグーにして、パンチするように、躊躇うことも無く。妙な既視感が、そうさせた。 右肘から先は、換気扇の中。痛くは無い。 換気扇は止まる事無く、まだパラパラと回っている。 換気扇の羽が、次々に私の腕を撫でる。どうやらそれは、ゴムのような物で出来ているようだ。 右の肘から先だけが、少し暖かい。 小窓の開いているトイレと違って、換気扇の向こうは暖房をかけているようだ。 徐に、右手を引く。入れる時と違って、少し抵抗があった。 換気扇の羽に絡み付かれながらも、無理やりに引っ張った感じ。それでも、痛くは無い。傷一つ出来ていない。 ゴムのような羽が絡み付いた感覚だけが残った。 この感覚…… また、既視感。 腕に向けていた視線を換気扇に戻す。が、換気扇が無い。 けれど、元の壁とも違う。 少し顔を遠ざける。 壁全体が、扉になっていた。 トイレのそれとは違う、玄関にありそうな、どっしりとした扉。叩けばガンガンと大きな音を立てそうだ。 換気扇が出現した時のような既視感は無い。 少し迷った後、私はその扉を開けた。 扉を開けた先に、換気扇に突っ込んでいた右肘から先が感じたような暖かさは無かった。 むしろその逆で、トイレの中より寒かった。 トイレの壁に突如出現したどっしりとした扉。 それと同じ様な扉がいくつか並んでいる。何処かのマンションだろうか。 私はいつの間にか、その空間を彷徨っていた。 あれ?祖母の家って、マンションだっけ?……そうか、そうだ、マンションだったのだ―――――― ――――コツ、コツ、コツ…… 誰かが階段を上って来る音が聞こえた。訳も無く私は逃げる。 祖母の家に、戻らなくては…… 今来た道を戻るようにして、私は祖母の家を探した。が、分からない。全くと言っていいほど分からない。 殆どの家には表札が無かった。 そうだ、祖母の家の住所…… それぞれの家に部屋番号は書いてある、住所を思い出せば良いのだ。 しかし何度頭の中で住所を思い出してみても、部屋番号らしき数字が一向に出て来ない。忘れたのだろうか、否…… そもそも祖母の家の玄関扉は、こんなのだったろうか?何かおかしい、何か間違っている。 ――――コツ、コツ、コツ…… 足音はまだ聞こえている。この階の廊下を、歩いているのか…… 私は、振り返った。 刹那、先程まで吹いていた冷たい風は止み、目の前には床一面ワイン色の絨毯が敷かれた、薄暗い部屋が広がっていた。 足音は、もう聞こえない。 少し前に換気扇に突っ込んだ、右肘から先だけが感じたあの感覚が、全身を包む。 空気が、止まっている。 全てのものが静止しているかのように、空気が動かない。 暖房をかけている様だと思ったその空気は、私に何の温度も感じさせなかった。 歩き出してみても空気の抵抗は無い。 まるで感覚が麻痺してしまったかのようだ。 どうなっているのだ、一体…… 祖母の家のトイレに扉が現れて、それを開けたら其処はマンションみたいなところで…… 足音から逃げていた時にふと振り返ったらこんな訳の分からないところに…… そう言えば、祖母の家はマンションだったのだと、先程思っていたような。 何を考えていたのだろう、祖母の家は平屋の一軒家だ。 そんな事も分からなくなってしまうなんて、私の頭はどうかしている。 キョロキョロと首を巡らせながら、ゆっくりと歩き出す。 知らない場所だ。 窓は無く、黒い笠を被った白熱電球のやわらかい灯りだけが、仄かに広がっている。 見上げると、ただ闇の中にぼうっと電球の灯りがあるだけで、天井の位置は定かではない。 此処はどうやら大きな部屋で、天井には届かない程の壁によって、二、三メートル幅の通路がいくつも作られているようだ。 殆どの壁には目線の位置と、それよりも一メートルばかり高い位置に、額に入った絵画が飾ってある。棚の上にはぽつぽつと、彫刻も飾ってある。 別に絵画や彫刻に詳しい訳では無いが、どれをとっても素晴らしいものだと感じた。 こういう場所を、何と言ったか。似たような場所を、私は知っている。 『此処は美術館だよ』 ああ、それだ、美術館。 優しい、低い声が教えてくれた。 けれどその優しい、低い声は、私の鼓膜を震わせたようには思わなかった。 頭の中に直接、声は入ってきたようだった。 声の主は私の知らない内に、触れる程近くに居た。 でも何故か、私は驚かなかった。 彼が其処に現れて、私に言葉を発したことを、当たり前のように受け入れていた。 すぐ傍に居た彼の存在に気付かなかったのは、此処の空気が動かない為に人の気配が伝わらなかったからだと、少し後で納得する。 私は顔を少し上げた。 其処に見える彼は、真っ黒な髪を持ち、口元には笑みを浮かべている。 こんなに近くに居るのに、目元は、何故か見えない。 ウエイターみたいな格好をしたその人を、この美術館の責任者だと、漠然と思った。 もっと絵を見てみようと、歩みを進める。 ひとつ隣の通路の中程で、一人の少年と出会った。歳は、私と同じ位だろうか。 少年と、目が合う。 『あっちで話そう』 少年は、目が合った時の表情を少しも動かさないで、指をさした。そう、唇も動いていない。 少年が指をさしたと同時に、文字が頭の中に浮かんだのだ。故に声音すら分からない。 私は少年の背中を追いかけた。そしてふと思った。 あっちで話そうと言ったのは、そこに机と椅子があるからか、と。 知らない筈の場所、それなのに何故そんな事を思ったのか。 少年が通路を曲がった。私も少年に続いて通路を曲がる。 次に私が見たのは、二つある内の一つの椅子に座る少年と、その前にあるテーブル。 テーブルには、曲がるストローのささったオレンジジュースが置いてある。 少年に促されて私は椅子に座った。 奇妙な空間で出会った一人の少年。しかし、喋ることは至って普通だった。 学校のこと、友達のこと、進路のこと…… 今度はちゃんと、唇を動かして話している。 私の鼓膜を震わせて、少年の声がしっかりと入って来た。 ――――ニタリ 不意に、少年が笑った。 笑った拍子に、少年の唇から、尖った八重歯、否、牙が、覗いた…… 吸血…鬼……? 『そう、吸血鬼』 また、私の頭に、文字が入ってきた。少年は、楽しそうに、笑っている。 私は少し身を引いて、後ろを振り返った。 そこには、最初に出会った黒髪の男が居た。 口元には、笑み。 急にこの空間が、空気の動かない異質なこの空間が、恐ろしくなった。 胃の底から恐怖が涌きあがり、全身を駆け巡る。 逃げなければ……帰らなければ……早く、祖母の家に…… 美術館の中を、我武者羅に走った。 何度目かの角を曲がると、其処にはずらりと扉が並んでいた。トイレの壁に突如出現した、それと同じモノが。 この扉のどれかが、祖母の家と繋がっている。漠然とそう思った。 私は、一つずつ扉を開けていくことにした。 しかし、扉は、どれも鍵がかかったように開かなかった。 『其処を通れば、帰られるよ』 振り向けば、またあの黒髪の男が立っていた。 男が指差す先には、扉の中央に付いた換気扇。先程までは、無かった筈。 『信じるかどうかは、君次第』 見れば隣の扉にも同じように換気扇が付いている。 『其処を通れば帰られる。でも別に、向こうのを通っても構わないのだよ?ただ、チャンスは一度きり』 換気扇を通れば帰られる、というのは信じていいだろう。けど、男の言う換気扇でいいのだろうか? 最初は優しい印象を受けた男の笑みも、今ではただ私を迷わすばかりだった。 作り物のように、決まった形を崩さない男の笑み。 果たして信じていいのだろうか。 『早くしないと、時間が無いよ?』 急かされて、私は男の言った換気扇に手をかけた。 男の言葉を信じた訳では無く、単純に、ソレだと思ったのだ。 顔を近づけた時、羽の間からちらりとトイレのような場所が見えた。 よし、合っている。 私は躊躇うことも無く、パラパラと回っている換気扇に頭を突っ込んだ。 腕を入れた時と同じ、痛くは無い。けれどやはり、腕を引き抜いた時のように、少し抵抗がかかる。 換気扇の羽が、首に絡み付く。 体が通るとは思えない大きさの換気扇。 それでも、通ると信じれば、通れる気がした。 強引に、換気扇を手で押し広げる。 ――――ぐにゃり めいっぱい力を入れると、換気扇は体がなんとか通りそうな大きさに広がった。 しかし直ぐに、元の形に戻ろうとする力が、私の手にかかる。 もう一度力を入れ、無理やりに体をねじ込む。 大丈夫、通れる。このまま、無理やりに…… 私は無意識に目を閉じていた。 絡み付く羽、抵抗感、そして、既視感――― 不意に、抵抗感から解放された。 いつの間にか目を開けていた私は、元のトイレに居た。 後ろを、振り返る。 其処にはもう、換気扇は無い。 扉もなく、見えるのはただのトイレの壁。 夢かと、思った。 けれど今、私は立っている。立ったまま眠るなんていうことは、私には出来た例が無い。 それに…… 全身に、確かに残る羽の感覚。 狭い所を潜り抜けてきたことを物語るように、髪はぼさぼさ。 何よりも、あんなにリアルな夢がある訳ない。 私の中の何かが、あれは夢では無いと告げている。 不思議な感覚に包まれたままトイレを出ると、夕日で畳が赤らんでいた。 『何処に行っていたの?』という母の問いに、私は少し動揺しながら答えた。 「ふらふらしていた」《図書室》 この夢はかなり鮮明に覚えています。 なので小説的要素が無茶苦茶になってるかもしれません……